創作民話 大蛇と大ムカデ ― 2022年05月21日 14:34
お楽しみいただけているでしょうか。これで10作品目になります。これからは、アップデートの期間を長めにとることにします。月に一度くらいのペースで考えています。
時崎幹男さんが風の文庫5『高萩今と昔の話 カッパ』という小冊子に、私の「河童の仲裁」と「河童」という二つの作品を掲載してくださいました。
時崎さんのエッセイと、高萩に伝わる河童伝説の再話なども載せられています。
高萩市立図書館でも読むことができると思いますが、ご希望の方は 0293-23-4117(時崎幹男さん)までご連絡してください。
大蛇と大ムカデ
秋山にある承殿神社(しょうどのじんじゃ)の鳥居の前には、りっぱな稲田がひろがっている。この辺りは高砂田(たかすなだ)とよばれていて、すぐわきを流れる花貫川よりも土地が高いため、むかしは田んぼを作ることができなかった。
いまから三百年ほど前のことだ。当時このあたりは、一帯が桑畑だった。風通しがよく、気持ちのいい桑畑で育てたくわっ葉を、モッシャモッシャ音を立てて食べたお蚕(かいこ)さんは、ほかの土地ではできない、質のいいマユを作ってくれた。まあ、米も作ることは作っていたが、桑畑のすみっこあたりで作る陸稲(おかぼ)というやつだから、粘りけがなく味もおちた。だから田んぼを作ることが、部落のみんなの願いだった。
部落の北側には、多々良場川(たたらばがわ)が流れている。この川は西側の山から急斜をかけくだってくるので、ほんのちょっとの上流でも、高砂田の土地より高いところを流れていた。なので、多々良場川からなら水を引けそうなものなんだが、承殿神社の丘が多々良場川との間に壁になって邪魔をしていて、水路を作ることができない。
部落の人たちは、寄り合いがあるたびに「この丘がもう少しでもずれていてくれたならなあ。」とため息をつくのだった。
多々良場川には、上流のほうに一匹の大蛇が棲(す)んでいた。少し北東にいった赤浜では良質の砂鉄が採れ、大昔から上流の山まで荷駄(にだ)で運びあげては、たたらで鉄を吹きたてていたものだ。この辺りの山では、たたらを立てるのに必要な炭をいくらでも焼いていたからな。大蛇はそんな製鉄をするものらの守り神だった。いまではなくなってしまったが、たしか田代の部落には、蛇神様を祀(まつ)った社(やしろ)があったはずだ。上田代に実家のある力雄君が、「ひい爺さんの頃まで蛇神様にお参りしていた」といっていたのを聞いたことがあるから間違いはなかろう。
ところで、南の神峰山(かみねやま)には一匹のムカデが棲(す)んでいた。胴が五尺(約1.5メートル)もあろうという、巨大なムカデだ。大ムカデはふだんは、神峰山の地下に埋まっている金や銅を腹の下に抱きかかえ、もっともっと多くの宝物に囲まれている夢を見ながら、眠っていることが多かった。
こいつは、たまに村に出てきては悪さを繰り返した。ふもとを流れる宮田川は、こいつがたれ流す毒で汚(よご)され、魚のすまない死の川になっていた。川の水を飲んでいたたくさんの人も殺された。
山は山で、こいつの吐く毒の息で樹木が枯れ、かろうじて立っている木は葉が黒くべたべたになって、鳥や獣や虫さえも寄りつかなかった。
ある日大ムカデは、珍しく訪れたからすどもがうわさ話をしているのを聞いた。なんでも、北の砂浜で砂鉄がとれ、それを山の民らが美しい鋼(はがね)にかえられているらしい。数日たって訪れたのは、だみ声のエナガだった。やはりエナガたちも同じうわさ話に興(きょう)じていた。夜になって飛びまわっていたアブラコウモリもその話だ。これは間違いない。
神峰の山は、金と銅が地ぞこに眠っている。それは大ムカデのたからものだ。しかし、ここには鉄がない。鉄があれば、玉鋼(たまはがね)で美しい剣(つるぎ)を造る事もできるし、頑丈な鎧(よろい)でいっそう身を護ることもできる。そう思い立つと、居ても立ってもいられない。大ムカデは、大嵐を巻き起こし、真黒な雲に乗って多々良場川に向かった。
不意を突かれた大蛇は、尾の方に鋭い痛みをおぼえた。大ムカデの顎肢(がくし)で、うろこを貫かれたのだ。この顎歯は、牙のように変化し鋭くとがった前脚で、神経毒を相手に注入することができる。刺された相手は、激しい痛みに襲われ、しだいに全身がしびれてくるのだ。
大蛇は、正面から戦うのは不利とみて、桃源(どうげん)から井の沢へと多々良場川をくだり、逃げ出した。大ムカデは猛然と後を追った。多々良場川が花貫川へと合流する菖蒲(しょうぶ)の淵までくると、大蛇はきびすを返した。とぐろを巻き、高くかま首をもたげて、大ムカデを迎え撃った。
大蛇と大ムカデの戦いは、七日七晩続いた。空は黒雲に覆われ、突風が吹き荒れ、雷鳴がとどろき渡った。川はしの突く雨で、氾濫(はんらん)した。
二匹の化け物は何度も何度もぶつかり合った。圧倒的に大蛇が不利だった。なぜなら大ムカデは、まるでヨロイのようにかたい背板と腹板とにおおわれており、大蛇の牙をもってしても、なかなか痛手を与えることができなかったからだ。それでも大蛇は死力を尽くして、戦い続けた。大蛇は大ムカデに巻きつき、締め上げ、体節のすき間を狙って牙を打ち込んだ。
しだいに、大蛇の体はボロボロになっていった。うろこははげ、赤い血が雨に洗われ、傷ついた肉が白くむき出しになった。二匹の怪物は、なんども離れてにらみあっては、またなんどとなくぶつかり合った。
暴れのたうちまわる怪物たちの争いに、家を壊され畑を荒らされ、命からがら承殿神社へ避難した高砂田の部落の人たちは、みなでいっしんにお祈りした。この争いをとめてくれ。凶暴なムカデを、追い払ってくれ。タタラ場の人たちの守り神を救ってやってくれ、と。みなで必死に祈った。
するとそのとき、荒れに荒らされた畑のあちこちから、無数のお蚕さんがモゾラモゾラと沸(わ)いて出た。二匹の化け物が戦っている下の地面が、お蚕さんで真っ白におおいつくされた。お蚕さんたちは、そろって天に向かって頭をもたげると、ゆっくりと首を回しながらいっせいに白い糸を吐き出した。白い糸は縦に横に交わり、絹の衣となって天に広がり、音もなくふわふわと舞い下りると、大ムカデの巨体をすっぽり包み込んだ。大ムカデは驚き、絹の衣を破り切ろうとした。が、大蛇をも苦しめるほどの顎歯でさえ、糸一本傷つけることができなかった。
息苦しくなり、大ムカデはめくらめっぽうにのたうち、暴れ出した。花貫川は、めちゃめちゃに荒らされ、あちらこちらがまた新たに決壊した。それまで、川筋は菖蒲から唐崎(からっつぁき)へ抜けていたのだが、神谷、佃(つくだ)の部落の方に流れるように変わってしまったほどだ。
大ムカデは死力を振り絞り、南の神峰山がある方角へと、とつぜん走り出した。四対(よんつい)もある眼は絹の衣に包まれているため、なにも見えない。めくらめっぽうあてずっぽうに走った。当たるものはみな砕け散った。大ムカデは方向感覚をなくしてしまい、同じところをぐるぐる回り続けてた。そして、力つき息絶えた。
大ムカデの死骸(しがい)は、何年もかかって腐り朽ち果てていった。体の脂(あぶら)が地面にしみこみ、イオウの匂いを漂わせた。そこは、油沢という土地になった。油沢はいまでも、あたりがイオウ臭いはずだ。地面を少し掘ると、油がしみ出てくるだろう。だが、むやみに掘ると、土地の人に叱られるがな。
ところで、大ムカデがなんどもぶつかり、大きな穴をうがったのは、承殿神社の丘のふもとだった。いまでも、花貫川の川岸のうえに、人間が楽にくぐり抜けることができる穴が二つある。これが、大ムカデがぶちぬいた穴のあとだ。
高砂田の部落の人たちは、この二つの穴を利用して、多々良場川から水を引いた。麦屋橋(むぎやばし)のたもとから、みんなで力を合わせて用水路を掘り、ムカデ穴を通して水を引き、ようやく念願の田んぼを作ることができたのだ。
いまは、高砂田ではもう桑畑を見ることができない。秋になると、金色の稲穂が重そうに実る、地元の人たちは相変わらず承殿神社を大切にしている。なにせ、ここに祀られているのはお蚕さまの神さまだからな。
しかし、この話は高砂田にはもう伝わってはいない。これは中学生の時に同級生だった力雄君が、ひい爺(じい)さんから聞いた話だといって聞かせてくれた話だ。
時崎幹男さんが風の文庫5『高萩今と昔の話 カッパ』という小冊子に、私の「河童の仲裁」と「河童」という二つの作品を掲載してくださいました。
時崎さんのエッセイと、高萩に伝わる河童伝説の再話なども載せられています。
高萩市立図書館でも読むことができると思いますが、ご希望の方は 0293-23-4117(時崎幹男さん)までご連絡してください。
大蛇と大ムカデ
秋山にある承殿神社(しょうどのじんじゃ)の鳥居の前には、りっぱな稲田がひろがっている。この辺りは高砂田(たかすなだ)とよばれていて、すぐわきを流れる花貫川よりも土地が高いため、むかしは田んぼを作ることができなかった。
いまから三百年ほど前のことだ。当時このあたりは、一帯が桑畑だった。風通しがよく、気持ちのいい桑畑で育てたくわっ葉を、モッシャモッシャ音を立てて食べたお蚕(かいこ)さんは、ほかの土地ではできない、質のいいマユを作ってくれた。まあ、米も作ることは作っていたが、桑畑のすみっこあたりで作る陸稲(おかぼ)というやつだから、粘りけがなく味もおちた。だから田んぼを作ることが、部落のみんなの願いだった。
部落の北側には、多々良場川(たたらばがわ)が流れている。この川は西側の山から急斜をかけくだってくるので、ほんのちょっとの上流でも、高砂田の土地より高いところを流れていた。なので、多々良場川からなら水を引けそうなものなんだが、承殿神社の丘が多々良場川との間に壁になって邪魔をしていて、水路を作ることができない。
部落の人たちは、寄り合いがあるたびに「この丘がもう少しでもずれていてくれたならなあ。」とため息をつくのだった。
多々良場川には、上流のほうに一匹の大蛇が棲(す)んでいた。少し北東にいった赤浜では良質の砂鉄が採れ、大昔から上流の山まで荷駄(にだ)で運びあげては、たたらで鉄を吹きたてていたものだ。この辺りの山では、たたらを立てるのに必要な炭をいくらでも焼いていたからな。大蛇はそんな製鉄をするものらの守り神だった。いまではなくなってしまったが、たしか田代の部落には、蛇神様を祀(まつ)った社(やしろ)があったはずだ。上田代に実家のある力雄君が、「ひい爺さんの頃まで蛇神様にお参りしていた」といっていたのを聞いたことがあるから間違いはなかろう。
ところで、南の神峰山(かみねやま)には一匹のムカデが棲(す)んでいた。胴が五尺(約1.5メートル)もあろうという、巨大なムカデだ。大ムカデはふだんは、神峰山の地下に埋まっている金や銅を腹の下に抱きかかえ、もっともっと多くの宝物に囲まれている夢を見ながら、眠っていることが多かった。
こいつは、たまに村に出てきては悪さを繰り返した。ふもとを流れる宮田川は、こいつがたれ流す毒で汚(よご)され、魚のすまない死の川になっていた。川の水を飲んでいたたくさんの人も殺された。
山は山で、こいつの吐く毒の息で樹木が枯れ、かろうじて立っている木は葉が黒くべたべたになって、鳥や獣や虫さえも寄りつかなかった。
ある日大ムカデは、珍しく訪れたからすどもがうわさ話をしているのを聞いた。なんでも、北の砂浜で砂鉄がとれ、それを山の民らが美しい鋼(はがね)にかえられているらしい。数日たって訪れたのは、だみ声のエナガだった。やはりエナガたちも同じうわさ話に興(きょう)じていた。夜になって飛びまわっていたアブラコウモリもその話だ。これは間違いない。
神峰の山は、金と銅が地ぞこに眠っている。それは大ムカデのたからものだ。しかし、ここには鉄がない。鉄があれば、玉鋼(たまはがね)で美しい剣(つるぎ)を造る事もできるし、頑丈な鎧(よろい)でいっそう身を護ることもできる。そう思い立つと、居ても立ってもいられない。大ムカデは、大嵐を巻き起こし、真黒な雲に乗って多々良場川に向かった。
不意を突かれた大蛇は、尾の方に鋭い痛みをおぼえた。大ムカデの顎肢(がくし)で、うろこを貫かれたのだ。この顎歯は、牙のように変化し鋭くとがった前脚で、神経毒を相手に注入することができる。刺された相手は、激しい痛みに襲われ、しだいに全身がしびれてくるのだ。
大蛇は、正面から戦うのは不利とみて、桃源(どうげん)から井の沢へと多々良場川をくだり、逃げ出した。大ムカデは猛然と後を追った。多々良場川が花貫川へと合流する菖蒲(しょうぶ)の淵までくると、大蛇はきびすを返した。とぐろを巻き、高くかま首をもたげて、大ムカデを迎え撃った。
大蛇と大ムカデの戦いは、七日七晩続いた。空は黒雲に覆われ、突風が吹き荒れ、雷鳴がとどろき渡った。川はしの突く雨で、氾濫(はんらん)した。
二匹の化け物は何度も何度もぶつかり合った。圧倒的に大蛇が不利だった。なぜなら大ムカデは、まるでヨロイのようにかたい背板と腹板とにおおわれており、大蛇の牙をもってしても、なかなか痛手を与えることができなかったからだ。それでも大蛇は死力を尽くして、戦い続けた。大蛇は大ムカデに巻きつき、締め上げ、体節のすき間を狙って牙を打ち込んだ。
しだいに、大蛇の体はボロボロになっていった。うろこははげ、赤い血が雨に洗われ、傷ついた肉が白くむき出しになった。二匹の怪物は、なんども離れてにらみあっては、またなんどとなくぶつかり合った。
暴れのたうちまわる怪物たちの争いに、家を壊され畑を荒らされ、命からがら承殿神社へ避難した高砂田の部落の人たちは、みなでいっしんにお祈りした。この争いをとめてくれ。凶暴なムカデを、追い払ってくれ。タタラ場の人たちの守り神を救ってやってくれ、と。みなで必死に祈った。
するとそのとき、荒れに荒らされた畑のあちこちから、無数のお蚕さんがモゾラモゾラと沸(わ)いて出た。二匹の化け物が戦っている下の地面が、お蚕さんで真っ白におおいつくされた。お蚕さんたちは、そろって天に向かって頭をもたげると、ゆっくりと首を回しながらいっせいに白い糸を吐き出した。白い糸は縦に横に交わり、絹の衣となって天に広がり、音もなくふわふわと舞い下りると、大ムカデの巨体をすっぽり包み込んだ。大ムカデは驚き、絹の衣を破り切ろうとした。が、大蛇をも苦しめるほどの顎歯でさえ、糸一本傷つけることができなかった。
息苦しくなり、大ムカデはめくらめっぽうにのたうち、暴れ出した。花貫川は、めちゃめちゃに荒らされ、あちらこちらがまた新たに決壊した。それまで、川筋は菖蒲から唐崎(からっつぁき)へ抜けていたのだが、神谷、佃(つくだ)の部落の方に流れるように変わってしまったほどだ。
大ムカデは死力を振り絞り、南の神峰山がある方角へと、とつぜん走り出した。四対(よんつい)もある眼は絹の衣に包まれているため、なにも見えない。めくらめっぽうあてずっぽうに走った。当たるものはみな砕け散った。大ムカデは方向感覚をなくしてしまい、同じところをぐるぐる回り続けてた。そして、力つき息絶えた。
大ムカデの死骸(しがい)は、何年もかかって腐り朽ち果てていった。体の脂(あぶら)が地面にしみこみ、イオウの匂いを漂わせた。そこは、油沢という土地になった。油沢はいまでも、あたりがイオウ臭いはずだ。地面を少し掘ると、油がしみ出てくるだろう。だが、むやみに掘ると、土地の人に叱られるがな。
ところで、大ムカデがなんどもぶつかり、大きな穴をうがったのは、承殿神社の丘のふもとだった。いまでも、花貫川の川岸のうえに、人間が楽にくぐり抜けることができる穴が二つある。これが、大ムカデがぶちぬいた穴のあとだ。
高砂田の部落の人たちは、この二つの穴を利用して、多々良場川から水を引いた。麦屋橋(むぎやばし)のたもとから、みんなで力を合わせて用水路を掘り、ムカデ穴を通して水を引き、ようやく念願の田んぼを作ることができたのだ。
いまは、高砂田ではもう桑畑を見ることができない。秋になると、金色の稲穂が重そうに実る、地元の人たちは相変わらず承殿神社を大切にしている。なにせ、ここに祀られているのはお蚕さまの神さまだからな。
しかし、この話は高砂田にはもう伝わってはいない。これは中学生の時に同級生だった力雄君が、ひい爺(じい)さんから聞いた話だといって聞かせてくれた話だ。
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